2004.10.26

 評判だという鮨屋に行って出てきた握りを見ておどろいた。長さ12、3センチはあろうかというネタがドロンといった感じでシャリの上に乗っている。箸でつまもうとすれば力がいるのでシャリがバラバラ、手でつかんでもネタがまとわりついて鬱陶しい。
 ぱっと目のインパクトと、ネタの新鮮さが受けて大繁盛らしいけど、僕は二度と行くまいと誓った。値段も高かったしって、これが一番の理由か(笑)?
 江戸っ子を気取るつもりはさらさらないけど、生まれも育ちも東京の僕にとって、鮨とはひとくちで食べられるもの。ネタとシャリが一体になったものが鮨、刺身を食いたいのなら刺身を注文すればよいのだ。
 もちろん、昔ながらのスタイルでサービスする店が、数は少ないが営業しているのは知っている。だけど、その手の鮨屋は高級になりすぎちゃってどうも足を向ける気がしない、というか向けられない。回転寿司と二極分化してるせいかもしれないが、気軽に楽しめる店が少なくなってしまった。いや、無くなってしまった・・・
 子どもの頃、父親が酔っぱらって持ち帰る折り詰めが楽しみだった。かんぴょう巻きから始まり、ワサビが大丈夫になるとカッパ巻きが加わり、ある日、赤身の握りが入っているのを見たときは大人になったような気がしてうれしかった。
 7、8才の頃だったと記憶している。雨が降った日、傘を持って駅まで父を迎えに行ったら、褒美だと言って鮨屋に連れて行かれたのが僕の鮨屋デビュー。小鰭の旨さに感動して何カンも食べあきれられてしまったのを覚えている。
 そこは、カウンターしかない小さな店で、江戸前の古典的な鮨しかおいていなかった。たしか、最初の頃はトロさえもなかったような気がする。いまのラーメン屋のように、酒を飲んだあとの小腹を満たす場所という意味合いが強かったので、値段もそれほど高くはなかったはずだ。
 そういえば、蕎麦屋も、ずいぶんステージが上がったようだ。昼間っから蕎麦味噌をつまみに酒を飲んでいるオッサンが絶滅危惧種になった代わりに、講釈の多い威張ったお店が増えたみたい。
 本道かくあるべき、なんてガンコオヤジみたいなことを言うのは嫌いだ。ただ、慣れ親しんだものが消えていくのがさみしいだけ。伝統なんて、よくよく見てみれば変化と同義語のように思えるほどだしね。
 大好きな鮨や蕎麦が普通に楽しめなくなった僕の気持ちは、伝統的な日本の釣りを楽しめなくなった釣り人の気持ちと共通するところがある。
 たとえば鮎。いまや全国ほとんどの川の河口部に堰が設けられ、天然遡上の魚が激減、代わりに入れた湖産の鮎は冷水病、人工のものはオトリを追わず釣趣に欠ける。「責任者出てこ〜いっ!」と叫んだところで、問題は複雑に絡み合い、味方だと思っていたところが敵だったり、何が原因で何が結果なのかも分からないままで、文句を言おうにも相手がはっきりしないのだ。
「国破れて山河あり」ならぬ「郷(くに)破れて山河もなし」あるいは「国家栄えて山河なし」といった状況の中で、「坊主憎けりゃ袈裟まで・・・」的に怒りの矛先が分かりやすい敵ブラックバスに向いても非難はできない。
 最近、熱狂的な鮎釣りファンと話をする機会があった。最初、バス釣りが趣味だという僕に対して喧嘩腰であった彼も、いろいろな事情を説明するうち「なんだ、お前らも、俺たちと一緒なんだな・・・」と漏らした。釣り師の気持ちが最終的に行き着くところは「気持ちよく釣りができる環境」であって、「たくさん釣れる」ことではない。
 井伏鱒二曰く「釣り師の資格はあわて者で、短気で、助平」であることだそうだが、なるほど、僕らはあわてて敵を見間違い、短気に怒っていただけなのかも・・・


 前回、話題にした犬は、野尻湖の「水辺感謝の日」から帰ったときには、もう、この世にはいなくなっていた。18年と4ヶ月、どうもありがとう。そして、安らかに。
 


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